自己矛盾ターコイズ

徒然なるままに。本を読みます。

『正欲』を読んだ

読んだのは一ヶ月ほど前になるが、朝井リョウ著『正欲』を読んだ。この作品は読んだ上でその後の考え方にも影響を与える。この作品について安易なことを言うことはできない。えも言われぬ読後感である。雁字搦めにされてしまう。

自分の想像の範囲外の事象について、「もっと他人の気持ちを想像しろ」などと簡単に言われてしまう経験は誰しもあるだろう。言う側かもしれないが。この作品を読めばわかる通り、どんなに気をつけても想像できないことはたくさんあるだろう。

最近では多様性を大事にしようという話を飽きるほど聞くようになった。その「多様性」は本当に多様なのだろうか。例えばLGBTなどはすでに人口に膾炙しているように思える(当事者からすれば、まだまだなのかもしれないが)。では、水に性的興奮を覚える人はどうだろうか?多くの人は「そんな人いるわけない」と思うだろう。全く想像できない性の対象であり、まさか水に性的興奮を覚えることを法律で禁じている国もあるまい。児童ポルノならぬ水ポルノ所持の疑いで逮捕される日は来ない。完全に想像の範囲外なのである。

そこまで極端な性癖を持つ人がこの文章を読んでいたら申し訳ないと思うが、多くは「普通」に位置する人であるはずだ。「普通」であることを生きる我々も時には「普通」であることに疲れてしまう。よく日本社会は同調圧力が強いと言われる。外国のことはよく知らないが、想像するに事情は似通ったものであろう。本当に多様性を許せるなら「普通」という言葉は定義すらできない。多様性のある社会は文字通り十人十色の社会であるのが理想になるだろう。しかし、本当にそれが理想であろうか。もう一度よく考えてみてほしい。ある程度は「普通」というものが存在しないと人間社会は成り立たなくなってしまう。「普通」になるための幼少期からの親の躾、義務教育なのだろうと思う。それに否定的な思いを持つ人もいるだろうが。

多様性を大事にする精神はもちろん大事であり、マイノリティを否定するつもりは全くない。しかし、マジョリティに属する者としては今一度「普通」とは何かを考えねばならない。我々は「普通」でいられる部分に安堵することができるだろうが、マジョリティであっても全く他者と同一である人はいない。小さな違いが、実際に私も経験したように、子どもにとってもはいじめの原因になりうる。そういった小さな違いによる多様性を社会で積み重ねていくことによって、やっと大きな多様性を認め合えるのではないだろうか。そんな社会が進んでいけば、人でもその他の生き物でも、ましてや2次元の絵でもないような、水のようなものに性欲を抱く人間をすら認め合える社会が来るのだろう。