自己矛盾ターコイズ

徒然なるままに。本を読みます。

『52ヘルツのクジラたち』から読み取ったこと【読書感想文】

小中高と読書感想文は苦手で、そもそも読書もあまりしていなかったのだが、今では読書好きになってしまったので、自主的に読書感想文を書くわけである。元々、読書や活字が嫌いだったのだが大人になるにつれて小説を読むことによって、知らない人の人生(フィクションであれ、ノンフィクションであれ)を追体験することができることを面白く感じ、お得だと思うようになってきた。そんなわけでこのブログを書き始めることになったのだが。

 

さて、今回は『52ヘルツのクジラたち』を読んだので、これについて書こう。親の離婚・再婚はなかなか経験することがない(というか、自分はしていない側の人間である)ので、ある種他人事として読むことができた。虐待を受けた子供がどのように成長するのか、疲弊していても自覚できないこともあるのか、ということ自然と描かれている。この作品のメインテーマは、まさに「親から子供への虐待」であろう。そこには3組の親子関係が描かれている。主人公の貴湖も家族に搾取され続け、母親の再婚相手である義理の父親の介護をさせられ、社会に出ることができずに自分の異常性に気づくことがないのである。両親は義理の弟を溺愛し、貴湖は愛されずに大人になってしまったという過去がある。実際、再婚でなくとも、弟や妹の方が愛されているように感じる(あるいはその逆)というのは経験したことがある人もいるように思えるし、他の作品などでもよく描かれている。親に振り向いてもらえるために努力する描写、そして最終的に認めてもらえて嬉しがるようなハッピーエンドが典型かもしれない(私がハッピーエンド好きだからそういう作品とよく出会うのかもしれないが)。しかし、貴湖は家族と和解することなく、家を出ていく。

そのきっかけとなるのが「アンさん」である。アンさんは最初は男のように描写されているが、回想が進むにつれ、実は女性であったことがわかり、母親からの理解は得られないために東京で一人暮らしをしていたということがわかるのである。これも一種の虐待ではないか。母親が自分の理想を子供に押し付け、娘が男であるという現実を受け入れられない。往々にして、母親というのは子供に自分の理想を押し付けがちであると思う。例えば、子供が初めて一人暮らしをするときに、母親が住むわけではないのに「築浅がいいんじゃないか」、「2階以上がいいんじゃないか」、「駅から遠いんじゃないか」などということを言ってくるわけである。これと娘が心は男であることを受け入れられないというのは別かもしれないが、やはり令和の時代的にLGBTを認めていく風潮になっているので、心の病と言ってしまうのは差別的な虐待であろう。(余談ではあるが、LGBTが流行っているからといって様々な小説にLGBTの登場人物が出てくるのは、あまり好みではない。)

もう一つの虐待は「52」と呼ばれる少年であるが、これについてはここで書くのはやめよう。『52ヘルツのクジラたち』が何を指すか、それは貴湖・アンさん・「52」の3人、そして様々なことに悩みながらも声を上げられない読者の私たちであろう。本書によれば、クジラの鳴き声の周波数帯は通常52ヘルツではないらしい。しかし、稀に52ヘルツで鳴くクジラがいて、そのクジラは仲間達と意思疎通ができないのである。私たちも52ヘルツで鳴くクジラのように、辛い悩みを相談できず抱え込んでしまうこともあるかもしれないが、いつかその悩みを聞いてくれる人が現れるのだと、あるいは自分がそういった悩みを聞くことができる人になるのだと、信じて生きていくしかないのではないか。ベタではあるが、人間社会は支え合いの連続であり、本書を通じて、改めて、人との出会いに感謝して、大事にしていきたいと思えた。