自己矛盾ターコイズ

徒然なるままに。本を読みます。

千歳くんはラムネ瓶のなか 5まで読んだ。

気づいたら5巻まで読んでいた。
千歳朔、最初はいけすかないヤリチン糞野郎だと思っててごめん。
1,2巻については前回の記事で述べたので、3以降について読んで思ったことを語る。
 
3の中で面白かったシーンは、東京に行くところ。福井の人が東京に出るのは非常に大変で、自分は高校卒業までに一人で東京に行ったことはない。親なしで県外に出るのも稀だったくらいだ。友人と金沢や大阪には行ったことがあるが。
つまり、福井の高校生が東京に行くというのは大冒険なのであるが、それは憧れの明日姉と行くのだからすごい思い出になるに違いない。
この東京に行く理由となる物語もかなりリアルで、福井の高校生、特に女子は福井から出ない人も多く、進学校の生徒の1割は福井大学に進学する。県外であっても、金沢や関西方面が大半である。そんな中、編集者になるために東京に進学するか親の言うことを聞いて福井に残るか迷う明日姉はすごくリアル。東京に行って、(流石に小説内のできすぎた体験だと思うけど)編集者を目の当たりにしたり、歌舞伎町で怖い目に遭ったり。そういう経験をして東京への憧れを強くする。自分も東京に対して憧れを強く持っていて、東京に行きたいという理由だけで大学進学を決めたので、過去の自分と重なる部分もある(明日姉は編集者になるという崇高な夢を持っているわけだが)。
なんだかすごく青春で懐かしい気持ちになるなぁという1冊であった。
 
4については、今度は部活について。高校2年生の春から物語が始まるという、変な設定で始まったチラムネだが、これまで朔の過去については、完全には明らかにされていなかった。いつ頃明かされるんだろうかと気になっていたのだが、ここでやっと高1の野球部時代の話に触れられる。バスケ部で同じクラスの女子、陽が新キャプテンとして苦悩する最中、朔も元野球部としての過去に向き合っていくストーリー展開である。これまで、朔のなんでもできるスーパーヒーローという感じであったが、この話では弱い部分がやっと出てきて、さらに人間味が出てきて共感できるようになる。女の子にモテすぎな部分は共感できないのだが。
 
5について、これは問題作である。結末が衝撃的すぎて、今後どういうストーリーが展開されるのか、6を読むのが楽しみでしかたない。書店で買ってくればすぐに読めるのだが、いかんせん時間がないので、しばらくお預けにしたい。
ストーリーとしては、今度は高1の春からの付き合いである夕湖に焦点が当てられる。正妻ポジションと言われているが、付き合っているわけではないという関係性になる前の話が語られる。まだ入学直後のころ、夕湖が優空に、入試1位だし、クラス委員長になることを推薦する。クラスの人気者である夕湖に言われたら、嫌でも断りづらい空気になるんだが、朔がそれは良くないだろうということをちゃんと言うのである。ピュアな夕湖に悪気があるわけではなかったが、ピュアすぎるが故に人を傷つけてしまうことに気づかせたのが朔というわけである。そこから恋に落ちてしまうわけだ。わからなくはない。
5巻では夏休み前半が描かれており、主に勉強合宿という、仲間たちと泊まりで旅行して親睦を深めるまたとない機会、青春の塊である。ちなみに勉強合宿というのはこの作品内のようなオーシャンビューの場所ではないにせよ、存在した。某予備校の先生が教えにきてくれるというものであったのを記憶している。それもそれで懐かしい気持ちになったのだが、合宿が終わり、夕湖が朔に対して、「告白」をしてしまい、そこから彼らの関係がギクシャク......するのか?というところで終わる。どうなってしまうんだ。気になって眠れない。
 
間違いなく今年読んで良かった作品ランキング上位です。
 
 

千歳くんはラムネ瓶のなか 1・2【チラムネ】

『千歳くんはラムネ瓶のなか』、通称『チラムネ』は主人公がリア充という(自分の経験では)珍しいラノベである。『このライトノベルがすごい』2021,2022年で2連覇している。しかもデビュー作である。過去には『SAO』や『俺ガイル』が連覇で受賞している。2023年では惜しくも2位であったようだ。
 
普段はあまりラノベを読まないのだが、この作品を読むに至った理由は単純で、
母校がモデルになっているらしい
と聞いたからである。
私の母校は福井県立高志高等学校である。本作の主人公が通う高校は「藤志(ふじ)高校」であり、校舎のモデルは福井県内で最も偏差値の高い進学校「藤島高校」、高校の位置のモデルが「高志高校」となっている。2つの名前を合わせて「藤志」になったというわけらしい。片割れとして、もう一つ、別の高校名として、作品内には「高島高校」が出てくる。
 
まず読む前に思ったこととしては、「リア充が主人公の本を読んで何が楽しいんだ?」ということなのだが、リア充について勘違いしていたことを詫びたい。
チラムネの中でも説明されている通り、リア充には2種類存在する。要するに良い方のリア充が本作の主人公「千歳朔」なのだ。運動神経も抜群で、頭も回り、小説も読む。普通の物語の主人公は「小説を読む」くらいのことしかしていないではないか。何でもできすぎだ。
そんな万能青年が1巻では引きこもりオタクを雰囲気イケメンと言えるほどに成長させる(それも高2の4月の間だけで)。2巻では高2から同じクラスになった美少女に付きまとう問題を解決する。まだ2巻までしか読んでいないが、このように、困っている人を千歳朔らしいやり方で解決していくのである。ラノベやなろう系でありがちな、ハレンチシーンがあるかというと、ほとんど健全な高校生の眩しい物語として進んでいく。会話のノリが(若さゆえか)ちょっと痛かったりするが、それも気にならないくらい展開も面白い。内容としても恋愛要素(?)、ミステリー要素などが含まれている
 
だが、最も面白い部分は、福井県について詳しすぎるところである。それもそのはずで、作者は福井県出身なのだが、ところどころ福井県民ネタを豊富に入れてくる。ネイティブ福井弁(注釈あり)であったり、カツ丼といえばソースカツ丼であったり、8番ラーメンであったりなど。さらに、スタバが福井駅前にはなく、スタバに入れるのはキラキラした人間だけでオタクはスタバには行かないというところなど(※北陸新幹線のおかげで2024年3月16日から福井駅にマックが戻ってきて、スタバもできるそうです)。また、東京に進学するか福井に残るか、という高校生特有の迷いについても書かれているようで、自分は東京に進学してしまったが、当時のことを思い出して懐かしい、感慨深くなってしまった。
 
福井出身だから面白く感じたのかと思うと、そうでもないようで、一般に人気があるらしい。福井出身以外の人はどういうところを面白いと思っているのか気になる。聖地巡礼ということで福井県がさらに盛り上がるきっかけになれば嬉しい限りである。
 

『52ヘルツのクジラたち』から読み取ったこと【読書感想文】

小中高と読書感想文は苦手で、そもそも読書もあまりしていなかったのだが、今では読書好きになってしまったので、自主的に読書感想文を書くわけである。元々、読書や活字が嫌いだったのだが大人になるにつれて小説を読むことによって、知らない人の人生(フィクションであれ、ノンフィクションであれ)を追体験することができることを面白く感じ、お得だと思うようになってきた。そんなわけでこのブログを書き始めることになったのだが。

 

さて、今回は『52ヘルツのクジラたち』を読んだので、これについて書こう。親の離婚・再婚はなかなか経験することがない(というか、自分はしていない側の人間である)ので、ある種他人事として読むことができた。虐待を受けた子供がどのように成長するのか、疲弊していても自覚できないこともあるのか、ということ自然と描かれている。この作品のメインテーマは、まさに「親から子供への虐待」であろう。そこには3組の親子関係が描かれている。主人公の貴湖も家族に搾取され続け、母親の再婚相手である義理の父親の介護をさせられ、社会に出ることができずに自分の異常性に気づくことがないのである。両親は義理の弟を溺愛し、貴湖は愛されずに大人になってしまったという過去がある。実際、再婚でなくとも、弟や妹の方が愛されているように感じる(あるいはその逆)というのは経験したことがある人もいるように思えるし、他の作品などでもよく描かれている。親に振り向いてもらえるために努力する描写、そして最終的に認めてもらえて嬉しがるようなハッピーエンドが典型かもしれない(私がハッピーエンド好きだからそういう作品とよく出会うのかもしれないが)。しかし、貴湖は家族と和解することなく、家を出ていく。

そのきっかけとなるのが「アンさん」である。アンさんは最初は男のように描写されているが、回想が進むにつれ、実は女性であったことがわかり、母親からの理解は得られないために東京で一人暮らしをしていたということがわかるのである。これも一種の虐待ではないか。母親が自分の理想を子供に押し付け、娘が男であるという現実を受け入れられない。往々にして、母親というのは子供に自分の理想を押し付けがちであると思う。例えば、子供が初めて一人暮らしをするときに、母親が住むわけではないのに「築浅がいいんじゃないか」、「2階以上がいいんじゃないか」、「駅から遠いんじゃないか」などということを言ってくるわけである。これと娘が心は男であることを受け入れられないというのは別かもしれないが、やはり令和の時代的にLGBTを認めていく風潮になっているので、心の病と言ってしまうのは差別的な虐待であろう。(余談ではあるが、LGBTが流行っているからといって様々な小説にLGBTの登場人物が出てくるのは、あまり好みではない。)

もう一つの虐待は「52」と呼ばれる少年であるが、これについてはここで書くのはやめよう。『52ヘルツのクジラたち』が何を指すか、それは貴湖・アンさん・「52」の3人、そして様々なことに悩みながらも声を上げられない読者の私たちであろう。本書によれば、クジラの鳴き声の周波数帯は通常52ヘルツではないらしい。しかし、稀に52ヘルツで鳴くクジラがいて、そのクジラは仲間達と意思疎通ができないのである。私たちも52ヘルツで鳴くクジラのように、辛い悩みを相談できず抱え込んでしまうこともあるかもしれないが、いつかその悩みを聞いてくれる人が現れるのだと、あるいは自分がそういった悩みを聞くことができる人になるのだと、信じて生きていくしかないのではないか。ベタではあるが、人間社会は支え合いの連続であり、本書を通じて、改めて、人との出会いに感謝して、大事にしていきたいと思えた。

 

 

【先入観どんでん返し】『逆ソクラテス』

どんでん返し屋さんである伊坂幸太郎の5つの短編からなる短編集である。

実は伊坂幸太郎の作品を読むのは初めてだったので、いつものどんでん返しがどんなものなのか良くわかっていない。

 

1作目の『逆ソクラテス』について感想を記そう。

無知の知」は誰しもが聞いたことがあると思うが、その逆であり、自分の判断が絶対正しいと思っている教師がいわば「逆ソクラテス」である(タイトル回収)。教師期待効果(ピグマリオン効果ともいう)という教育心理学の用語が一つのテーマとも言える。この物語では、「ダメな子」というレッテルを貼られた草壁が実際に自信をなくし、クラスメイトからも「ダメなやつ」だと思われるようになってしまう。担任教師の判断が必ずしも正しくないとわからせて、改心させようという目的で、草壁に(カンニングによって)テストで高得点を取らせるところから物語が始まる。主人公たちは「僕はそうは思わない」という言葉で先生に立ち向かう。

教師期待効果という心理効果を知らなかったのだが、ポジティブな意味であれば実体験として知っていた。中学からなぜか親や先生に期待されるようになり、高校でも親や先生、クラスメイトからの期待があって勉強に励んだという記憶がある。これは正のフィードバックとも言えるだろうが、勉強を頑張れば頑張るほど良い結果が得られ、その繰り返しになっていった。終わりよければすべてよし、という風にもいうが、最初のテストの結果が良ければ良いほど教師に期待されて、さらに良い結果を生むのではないだろうか。では最初に失敗したら終わりなのか?というと、周りの環境が大事という話なのだと思う。もしも応援してくれるような親や教師がいれば、頑張ろうという気にもなれるものではないだろうか。小学校の段階から(成熟の早い子では保育園くらいから?)、教師期待効果による正のフィードバックのループに乗ることができれば、子育ても楽なのかもしれない。仮にそのループに乗せられなかった、つまり悪い教師と出会ってしまった場合に(小説や映画作品では悪い教師が出てくることが多い気がする。今思えば、自分が今まで出会ってきた教師の中にもそういう教師はいたに違いないが、先述した通り期待されていることが多かったので気づかなかった。きっと多くの場合は悪い教師に出会うのだろうと推察される)、子供が「僕はそうは思わない」と思えるようにせめで親だけでもそういう教育をするべきだろう。親として、歪んだ悲観的な人間に育たないようにしたいと思う。

 

本の探し方【『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』】

お題「本の探し方どうしてる?小説でも新書でもしばらくハマった作者に飽きたり、作品をすべて読んでしまったりした時。次の本をどうやって探してますか?」

 

お題に答えてみる。

私の場合は、本を紹介するYouTubeの動画を見ることが多い。全く有名ではない方がYouTubeで読んだ本の感想を述べているような動画を料理中や寝る前の空き時間に見ることが多い。きっと「読書 感想」とでも調べれば出てくるだろう。有名どころだと「ほんタメ」などもある。

あるいは、別の方法として、知人におすすめの本を聞くということもよくやっている。幸い、大学ではさまざまな学部の人と知り合うことができた。私自身は理系ではあるが、文系の友人に聞けばその人の専門性も交えた視点で小説を紹介してくれる。

最近、花田菜々子著『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』を読んだ。これは実際に花田さんが行ったという実録小説である。今ではよく名前を聞くようになったマッチングアプリだが、著者は2013年に出会い系サイトを通して出会った人に本を勧めるというなかなかにクレイジーな体験の実録小説だ。さて、この本の面白いところは、そのようなクレイジーな体験でもあるが、実際に出会った人に合わせて紹介された本を知ることができることである。この小説内で紹介されている本は多岐にわたる。旅人のバイブルである沢木耕太郎著『深夜特急』や、近しい人とお別れした直後の悲しみと向き合える山崎ナオコーラ著『美しい距離』など。出会い系らしく、エロ目的で近づいてきた男性に勧めた本が樋口 毅宏著『日本のセックス』である。この3冊だけでも多岐にわたることが実感できる。このように、(特殊ではあるが)本を通して次の本を探すというもの、読書好きとして面白いのではないだろうか。

『正欲』を読んだ

読んだのは一ヶ月ほど前になるが、朝井リョウ著『正欲』を読んだ。この作品は読んだ上でその後の考え方にも影響を与える。この作品について安易なことを言うことはできない。えも言われぬ読後感である。雁字搦めにされてしまう。

自分の想像の範囲外の事象について、「もっと他人の気持ちを想像しろ」などと簡単に言われてしまう経験は誰しもあるだろう。言う側かもしれないが。この作品を読めばわかる通り、どんなに気をつけても想像できないことはたくさんあるだろう。

最近では多様性を大事にしようという話を飽きるほど聞くようになった。その「多様性」は本当に多様なのだろうか。例えばLGBTなどはすでに人口に膾炙しているように思える(当事者からすれば、まだまだなのかもしれないが)。では、水に性的興奮を覚える人はどうだろうか?多くの人は「そんな人いるわけない」と思うだろう。全く想像できない性の対象であり、まさか水に性的興奮を覚えることを法律で禁じている国もあるまい。児童ポルノならぬ水ポルノ所持の疑いで逮捕される日は来ない。完全に想像の範囲外なのである。

そこまで極端な性癖を持つ人がこの文章を読んでいたら申し訳ないと思うが、多くは「普通」に位置する人であるはずだ。「普通」であることを生きる我々も時には「普通」であることに疲れてしまう。よく日本社会は同調圧力が強いと言われる。外国のことはよく知らないが、想像するに事情は似通ったものであろう。本当に多様性を許せるなら「普通」という言葉は定義すらできない。多様性のある社会は文字通り十人十色の社会であるのが理想になるだろう。しかし、本当にそれが理想であろうか。もう一度よく考えてみてほしい。ある程度は「普通」というものが存在しないと人間社会は成り立たなくなってしまう。「普通」になるための幼少期からの親の躾、義務教育なのだろうと思う。それに否定的な思いを持つ人もいるだろうが。

多様性を大事にする精神はもちろん大事であり、マイノリティを否定するつもりは全くない。しかし、マジョリティに属する者としては今一度「普通」とは何かを考えねばならない。我々は「普通」でいられる部分に安堵することができるだろうが、マジョリティであっても全く他者と同一である人はいない。小さな違いが、実際に私も経験したように、子どもにとってもはいじめの原因になりうる。そういった小さな違いによる多様性を社会で積み重ねていくことによって、やっと大きな多様性を認め合えるのではないだろうか。そんな社会が進んでいけば、人でもその他の生き物でも、ましてや2次元の絵でもないような、水のようなものに性欲を抱く人間をすら認め合える社会が来るのだろう。

『傲慢と善良』を読んだ

人は皆、無意識のうちに傲慢であると思う。それでいて、誰しもが善良な部分を併せ持つ。

『傲慢と善良』は二人の男女、架(かける)と真実(まみ)の恋愛、というよりはむしろ婚活に焦点を当てた謂わば婚活ミステリーである。これは恋愛小説ではないと言ってよい。まるで人生の指南書を物語に書き起こしたような作品であると感じられた。

 

私自身は25歳になったばかりの理系大学院生であり、結婚はまだまだ先のことであると考えている。若かりし頃の架のように。一方で、女性からすれば、多くの人がそろそろ結婚を視野に入れる年齢であるのだろう(ひょっとするともう遅いと感じる人もいるかもしれない)。

 

私は中学までは田舎の公立中学に通い、高校で初めて受験をして地元の進学校に進学し、大学進学と同時に上京した。この時代においてはSNSを通じて、気軽に中学時代のクラスメイトと繋がることができてしまう。もう何年も会っていない、それでも流れてくるInstagramのストーリーズや投稿を見ては近況を知ることになる。誰の結婚式にも呼ばれたことはないが、多くの中学時代のクラスメイトがすでに結婚して、中には子供までいることを知っている(ちょうど今日も知り合いが結婚したことをSNSを見て知った)。まるで、小説の中で出てきたショッピングモールで架が感じたようなことを、身をもって知っているのである。このことは田舎から都会に出てきた私のような人には共感してもらえることと思う。

 

一方で真実は、束縛が強く、子離れできていない親からの自立を目指した。これも実体験としてよくわかることで、私も大学生の頃から始めた一人暮らしで、できるだけ自立したいと思っていた。私の場合はどちらかといえば真実の姉である希実と同じで大学から家を出ているのだが、もしも家を出ずに地元の大学に進学していたら真実のようになっていたかもしれない。

 

架は若い頃からモテていた側の人間であり、タイミングが悪く結婚が遅れただけで、いくらでも結婚する気さえあれば出来た人間であろう。そういう意味では、共感しづらい読者も多いのではないか。私自信もモテた経験は一度もない。むしろ非モテこそ傲慢さが少ないように思える。しかし、著者は真実を非モテの女性として描いている。その真実の傲慢さがどこからくるのだろうか。それは、実家がある程度裕福であり、母親に洗脳された価値観によるプライドではないか。つまり、ここまでの人生で全てを失敗しているわけではないような、しかしモテていたわけではないという人間も恋愛・婚活において傲慢になってしまうらしい。

婚活と就活は似ている。「選択肢を広げるために勉強して高学歴を目指しなさい」と言われて勉強をさせられている高校生は多いだろう。そして高学歴を手に入れた学生はいつの間にか「せっかく東大に入ったのだからいい企業に行きたい、高収入になりたい、エリートになりたい」と言う。自分の傲慢さのために選択肢が狭まっているのである。たとえば本が好きだから出版業界に務めたいとする。しかし、(実際のところは知らないが)給与が少ない・ブラックだというような理由で断念し、自分は高学歴だからと言って総合商社や外資系コンサルを狙うようになってしまう。傲慢である。婚活においても、無意識の自己愛の高さから、どんなに良い相手であってもピンとこない。何か悪い部分、断る理由を見つけ出してしまう。結果的に婚活がうまくいかないことになってしまう。100点の相手など、滅多に現れないし、自分の点数を高く見積りすぎないように傲慢な部分を捨てなければならないということなのだろう。

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